さらざんまいの考察のようなもの 愛なき時代に生まれたわけじゃないけど欲望に生きてもいいじゃない

 さらざんまいについて今更ながら考えていこうかと思う。テーマというかキーワードがここまで強調されて出してくる幾原監督作品は珍しい気がするけど、情報量が多すぎて処理するのが大変だというのもまた感じた。

 普通に考えると主人公はメインで出続ける中二組なんだけど、僕は警官二人組(レオとマブ、レオマブ)もまた同じくらい重大な存在だと思う。この二組の比較を軸にして今回の考察を進めていきたいと思う。

 

 中二組の繋がりは、過去サッカー部でコンビだった二人と転校生という関係。いまでも緩いつながりはあるものの、物語のいまここの場面から考えると共通点はほとんどなく、一般的な見方からすると物語にできるほど濃密なものではないように思われる。このような存在をメインで描くことは今作最大の特徴ともいえると思う。

 一方でレオマブは生まれからして深いつながりを持っていて、さらに事情はあるとはいえ疎遠になっているが、そのことがまた強い絆を強調している。これまでの物語であれば、というかユリ熊とかピングドラムの主人公たちの姿がそのまま重なるように思う。

 中二組はそれぞれの繋がる理由はあるけれど、それはどれも一方的な思いから成り立っていて、両者が同じ思いを持ってつながりあっているということはないし相互のことを何でも知ろうということまではしない。互いの秘密は欲望を消化する過程で漏洩していく。その姿はさながらSNSで、互いに存在して見せ合うことで繋がりを保っている。また、彼らには各話のタイトルで示されているような「○○したい」というたくさんの、そしてちょっと特殊な欲望がある。全ては叶わないけれど絶望せずに実現に向けて動き続ける。レオマブは両者が求めあって、願いは本当に少なく単純で、相互に理解しあうことをひたすらに目指していく。その姿はやはり従来の(といっても比較的最近のものになるけど)物語でよくみられる関係性になっている。

ただ一つの普遍的な願いを「希望」もしくは「愛」とすると、たくさん持ちうる特殊な願いは「欲望」といえるように思う。希望と愛についての物語は聞こえはいいけどそれを失ったときに絶望につながる。一歩道を踏み外したら戻れないというのは非常に現代的なものを感じる。そんな現実に対抗して、欲望(という言い方があっているかはわからないけど)を肯定的にとらえて描き出している部分もあると思う。

 中二組のことを完全に肯定して描いているかというとそうでもないように思える。最終回で示される決して明るくない未来がどのように影を落とすかを完全には語らない。それはまさに現代を生きるぼくたちが大きな問題に向き合ったときどのように生きるかがまだ誰にもはっきりとわからないことを示していると思う。本編中で「だせえこと」とまで言われた自己犠牲の姿が古くて現状にそぐわない物語の形なのかの答えはまだ保留されている。

 さらざんまいは現代を移すような全く新しい主人公たちを登場させ、新たな物語の形を示した作品であったと思う。まだまだ考えたりないし間違っているところもあるように思うけど徐々に補足できるように勉強したいと思う。