キズナアイ騒動に現れた「分人」という単語を巡る解説と考察とお気持ち

なんかキズナアイさんが話題になってるけどまあそんなに口出しすることでもないかなーと思いつつ流し読んでいたら、なんか「分人」ってワードが見えるじゃないですか????

kai-you.net

このワードとvtuber(キズナアイさんの肩書に関しては諸説あるのですが多少乱暴だけど統一してこう書かせていただくことをお許しください)が出てきたらvtuber平野啓一郎さんの作品を愛する僕には一家言ありますよっていうことで記事を書き始めてしまった。

 

 

キズナアイ騒動のどういう文脈で分人が出てきたのか

分人が出てきたのは今回の騒動についてキズナアイさんを運営するActiv8の代表取締役である大坂武史さんのファンに向けた文章です

https://t.bilibili.com/288203493953508049

この文章の中で分人という概念に2015年12月8日に出会ったとして

自分というものは他人によって引き出される存在であり、本当の自分というものは存在せず「子どもと接しているときの自分」も、「かしこまっているときの自分」もすべてが「自分」であるという考え方が「分人」です。

として、中国の人ともおしゃべりしたいという分人が現れたのが4人目のキズナアイなのかもしれないと書かれている。

 

そもそも分人って何?

分人の意味は、対になる言葉でありなじみ深い言葉である「個人」について考えると理解しやすい。個人を表す英単語individualは否定を表す接頭辞のinと分けるを意味するdivideをもとにしたdividualの組み合わせからなる単語である。つまり個人は「自分という存在はこれ以上分けられない」という意味を含んでいる。これが分人の前提となる個人の定義である。

それに対して分人は、自分という存在を分割可能だと考える。この考えを聞いて「??」となる人も多いかと思うので、例を出して話をしていこう。

分人の考え方を提唱している作家の平野啓一郎さんは『私とは何か――「個人」から「分人」へ』 (講談社現代新書)では自身の体験談をもとに説明している。

平野さんは高校の友人と大学の友人(二人は初対面)の3人で焼き肉に行った。その際、少し恥ずかしような気まずいような気分になったと語っている。その理由として、大学の時の自分と高校のときの自分の違いを二人からの暴露という形で指摘され、自分でも二人と接する態度や話し方が違うことを意識したからだという。その時感じた恥ずかしさの原因を、それぞれの前で演じ分けているウソ(の自分)をバラされたように感じたからだとしている。

でも少し考え方を変えて、「高校の友人と接する自分」と「大学の友人と接する自分」は別物なのだと考えることによってそれぞれの自分はウソでない自分として考えられる。そのそれぞれの「自分」を個人から分けられた分人と呼ぶ。というのが分人の基本的な考え方である。

 

分人の考え方の起源

ところで分人という単語についてのまとめ記事を見ると作家の平野啓一郎さんの生み出した単語として書かれがちだけど、これはもう少し遡ることができて、フランスの哲学者ドゥルーズが基となっている。

wired.jp

 上の記事でも少し触れられているように、そこから平野啓一郎さんの分人は基本的なコンセプトはそのままに少し意味は変わってきている。おそらく前提にあるのは平野啓一郎さんの分人であると思うし、僕の能力的にもドゥルーズを語るのは厳しいので、平野啓一郎さんの分人について話をしていく。

 

分人の生息地

『私とは何か』の中では様々なシチュエーションにおいて分人は存在しうるとしてその例を紹介しているが、その特徴は分人が向き合う相手は相手の分人に限らないということである。

例えばSNSなどネットに姿を現す自分と他の人とオフラインで会話する自分は違ってくる。ネットの方が「偽の自分」だなどと考えないでどちらも本当の自分であり、それに合ったように変わっていくのが分人であるとしている。ほかの指摘もとても面白くて、例えばリストカットは自分という存在すべてが死にたいから行う行為ではなく、生きたいがゆえに気に入らない自分の分人を傷つけるのではないかという話であったり、人を好きになるのは相手のことだけでなく相手と向き合う自分の分人がすきということもあるのではないかという話もあったりしてとても面白い。

 

もう少し進んだ分人の考え方とvtuber

  分人の考え方を紹介した本としては『私とは何か』が実際ズバリなタイトルと内容なわけだけど、もう少し考えを深めるためには平野さんの小説も読んでほしい*1。特に今回取り上げたいのは『ドーン』という小説で、2009年に発表された小説である。舞台は2036年アメリカ。ARやドローンの話が盛り込まれていて、読んだ当時の僕はそれらの単語を初めて聞いたくらいの感じでふーんと思いながら読んでいたけど、それが今では日常にまで近づいていて驚かされている。そんな未来の姿を詳細に描写しているところも魅力な小説である。そんな中で登場する一つの(架空の)新技術をvtuberとともに考えたい。

 その新技術というのが「可塑整形」と呼ばれる技術で、分人が中身を変えるように、会う人や場面によって顔を変えられるように手術するものである。「会う人や場面」と書いたけど、今回の流れに沿って書くとすると「分人に合わせて」と言い換えることもできる。なんか急にvtuberに近づいてきた気がしません?

 小説の中では可塑整形の話をするにあたって源氏物語を題材として分人の考え方を交えながら紹介する。

 光源氏は多数の女性との分人をうまく作り上げるプレイボーイであり、彼は若くして亡くした母の桐壺更衣の面影を探していろんな女性に手を出していると紹介する。そのうえで記憶を頼りにした面影(≒顔)の唯一の記録である記憶は非常にあいまいなものだったと指摘する。

 それと比べると現代は記録デバイスの進歩によって

顔というのは、どんどんくっきり、はっきりしてきたんです。顔の重要さが増してきたといってもいいかもしれない。相対的に他の能力の評価は低下したでしょう。

として、そういう流れで2019年現在の普通の意味の整形が出てきて、 *2そこから分人に合わせるために顔も変えたいという話になり、可塑整形の話が出てくる。

 可塑整形に似たものがvtuberの一つの側面としてあるのではないかというのが僕の結構前から抱いていた考え方である。ファンの人とうまくかかわるために見た目を変えることでvtuberの側も思い切ったことを話せたり、距離感をうまく取れたりしている。vtuberという在り方は、分人という考え方を知らなくても無意識のうちにいつもの(中の人としての)分人とvtuberとしての分人をうまく切り分けてくれていたものなのではないかと思う。

 最後にキズナアイの分人について考える。

※ここから先はかなり主観が入ってくるし、分人の解釈次第なところもあるのであくまでぼくの考えということを強調させてほしい。 

で、冒頭の話に戻ってキズナアイの話をすると、まず前提として、1人の時であってもファンが触れているのはキズナアイの(もしくはキズナアイという名前の付いた)分人と接していたんだと考えるべきなんじゃないかと考えている。

 そして、4人に増えたキズナアイのことを分人という考え方ができるかという本題についてなんだけど、結論から言うと現状だとかなり無理のある解釈なように感じてしまう。1人の中に複数の自分があっていいという部分だけを考えると分人であるといえかもしれない。しかしながら、これまで見た来たように自分と相手(今回だとファン)という関係性のもとに相手との相互作用によって築かれていくものが分人なのであって、突然現れた「個人」を押し付けて「これがあなたたちとの分人だから」といって納得させるのは厳しいし分人の考え方からも離れているように思う。顔が仲のいい友達と同じだからと言って性格が全く違う相手といきなり仲良くするのは難しいし、相性が合わないから一生仲良くならないということも十分に考えられるだろう。

 最後に言っておきたいのは、僕は4人に分かれることを悪いとは思わないし、この枠組みを続けていくことによって分人が形成されていく可能性は十分にあるだろうということである。中国の人と話すキズナアイであったり歌を歌う時のキズナアイであったりTwitterをするキズナアイを分けても、もしくは分けたからこそうまくいくっていうことだって十分に考えられる。例えば僕はホラゲーでビビるキズナアイも見たいけどゲームで無双してドヤるキズナアイを見たいとも思う。場面によって向き合う分人は変わってくるのだから中の人が違っていてもいいと思う。ただ、またゼロから関係性を作り上げていくくらいの時間と覚悟が必要だとも思う。

 

vtuberのことを考えるうえで分人の考えはとても面白いし多くの人の話を聞きたいところだと思うのでファンと運営に幸福があることを祈りつつこれからの展開を見守っていきたいと思う。

 

 

*1:代表的なのは自殺について考える『空白を満たしなさい』や個人の限界を探る『決壊』など。今回紹介したもの以外でも、平野さんの小説には多くの場合分人の考え方をもとにして書かれている。

*2:この現代では普通の整形を小説の中の未来では不可塑整形と呼んでいて、こういう言葉選びも面白い