死刑について、そしてまたまたバーフバリ

さてさて、急に重いテーマですが許して。

死刑、どう思います?当然の報いともいえるかもしれません。殺人をしたならば殺されても当たり前だと思うかもしれない。それももっとも名意見だとおもう。ぼくも被害者の身内だったらと考えたらきっと声高に犯人の死を望むかもしれないとおもっている。

でも僕は、少なくとも今の段階では死刑にはあまり賛成しない。これからその理由を挙げていくけれどもかなり感情的、感傷的なのでこういう意見の人もいるんだーくらいで見てください。

生きて償うという道の無くなった人がいるということは、社会がその事件に対して向き合うことを放棄していると思う。事件の起きた責任をすべて犯人に負わせて死んだことで事件は少なくとも社会的には終わりのような扱いになる。でも犯人を生み出したことについて社会の責任は完全に無くて、幼少期や周りの人間関係とは全く関係なく突如として、もしくは産まれた状態で悪となって罰されるのか。確かに向き合いたくないことだけど犯人の人生とともに向き合っていくべきであり、完全な拒絶を与えてはいけないと思う。

さてもう一つの理由は引用から、

「僕は、共同体がその構成員にペナルティを科す場合、常に共同体、つまりペナルティを科す側が、その構成員、つまりペナルティを科される側より倫理的に優位であるべきだと考えます」(平野啓一郎『「生命力」の行方』)

殺しに対して殺しで応えたのでは、裁く側と裁かれる側の違いは権力の大きさだけになってしまうように思う。社会に復讐しようと思って無差別に人を殺した犯人に対して死刑で応えたらそのやり方を肯定することにならないか?ほかの道を示すことが求められているのではないか?そんなことを思います。

そしてなんでタイトルにバーフバリがついているのかというお話。「指だけじゃなかったじゃん!」「じゃあラストシーンどうなんだよ!」というわけです。

まあ、フィクションだから!ということなんですけど、この点に関してはたまにはバーフバリを少し批判的に書いてもみます。

あのシーンをどう考えるのかってことなんだけど、殺すことについてはあまり同意はできないんですよね。ビッチャラおじさんを殺さなかったことは、バラーに小さくない影響を与えていることは明確でも憎しみの対象にきっちりとした線引きをしているという点ですごいと思います。しかしながら、主観的な立場だけから悪とみなして完全に個人の怒りに任せて殺してしまうのにも、公開処刑のような手法を喜んでしまう、中世から全く成長してないのではないかと思い返されてしまう我々にも少し反省が必要なのでは、と少し思ったりもします。