承認欲求が可視化されたこの世界で

 さてさて最初の記事誰にも読まれないかと思っていたんですが意外にも見てくださったひともいたようでなかなかうれしく感じております。

 さて今日のテーマはそんなときにほんのり満たされたのかもしれない承認欲求というなんかよくわかんない感情についてわかんないなりにうだうだ言います。承認欲求というとマズローの欲求のピラミッドを思い出します(とはいえマズローについて知ってるのこれくらいなんですが)。ウィキペディアによると

  • 自己実現の欲求 (Self-actualization)
  • 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
  • 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
  • 安全の欲求 (Safety needs)
  • 生理的欲求 (Physiological needs)

が上にあるほど上位の欲求と位置づけられているみたいです。承認欲求かなり上位ですね。これを基にお話を進めていきたいと思います。

 もはや生理的欲求や安全の欲求はこの国で暮らしている以上語るまでもなく満たされているか、満たされることを望むのが当然だというのが共通認識なんじゃないかと思います。この共通認識っていうのがいわゆる世間の目ってやつだと思うんですが、社会的欲求のあたりからあまりにも貪欲にしすぎると世間の目が厳しくなるように思います。この理由って、その欲求を見慣れていない、もしくは見方がわからないでいるんだと思うんです。所属とか愛って、個人個人が求めるものであって社会全体が目指すものではないっていう認識があるのだと思います。みんながそこまで積極的になっていないものを求めるのはガツガツしすぎでしょとなるわけです。

 とはいえとはいえ、どう生きてきてもどこかに所属して、誰かといて、みたいな社会的欲求は結婚だの学歴だの一流企業だのって話が昔から大好きな世の中なんでみんなが持っている欲求としては認められてきたのだと思います。ただそれを前面に押し出した受験だの就活だの婚活だのっていう他人のむき出しの欲求を見る機会はそんなになくてあまりいい顔されないことがあるのだと思います。

 そして問題の承認欲求。いい学校に入っていいとこに就職していい人と結婚して…っていうのが社会で生きるということだって教わるこの世の中でこの期に及んで社会に認めてもらいたいとかいう欲求。いい場所と人に所属しているんだから社会にももう認められているんじゃないかとか理解しがたい人も多いのではないかと思う。

 僕たちはSNSを眺めることによって見られる多くの人の本音(のようなもの)を見ていくことで本当に自分は多くの人から認められているのかが不安になってきて、そんな思いで自分の投稿を見返すといいねの数が気になって…という風に「自分は本当に社会から認めてもらっているのか?」という疑問を持ち始めてしまったんだと思う。そんな欲求の発散のさせ方なんてよくわかんないし、見せ方も露骨になってしまう。周りもその見方とあしらい方(言い方は悪いけど)がわからないままでいて、なんか変な目でみてしまい、いつまでたっても欲求が解消されない…。そんな状態にいるんだと思う。

 ここまでいろいろ書いてきたけども承認欲求の問題への明確な解決策を持っているわけではありません…。でも(少なくとも僕は)そういう問題を持って生きていると知ることで、自分や他者の承認欲求との付き合い方の参考になればと思います。

最後に、僕の大好きな作家の平野啓一郎さん『かたちだけの愛』からの文章を。

愛とは、相手の存在が、自らを愛させてくれることではあるまいか?

「相手」というのは人じゃなくてもマンガでもアニメでも美術品でも小説でもなんでもいいのだと思います。こういう形で承認欲求をこれまで言われてきた「社会」の所属以外にも求められるのが現代のいいところだと信じています。文字ばっかで反省しています。お粗末さまでした。