僕は芸術家に期待しすぎていたのか?--カタストロフと美術のちから展感想

森美術館、カタストロフと美術のちから展見てきました。

好き嫌いの話になってしまうけどなかなか受け入れがたい展覧会でした…。

カタストロフ、大きな破滅や悲劇と芸術はどのように向き合うのか、というのが主題だと認識していました。確かに困難な主題だっていうのは思っていたけれど、だからこそ期待もしながら観に行ったんですよ。

僕にとってこのテーマを持っている作品で一番のお気に入りは「この世界の片隅に」だと思っています。あんな感じの真摯な向き合い方と丁寧な描き方を期待したんですが…

 

開幕の作品から「えっ」って感じがしたんですよね。段ボールとかのちゃちい素材で作られた崩壊したビル。安っぽいとかそういうことを言いたいんじゃなくて、意図が見えなかった。

宮城に住んでた頃、自転車で何の気なしに海沿いまで行ったときに崩壊した建物を見ました。あれを見たときには震災から2年くらい経っていたけれど家の中までむき出しとなってそのまま放置されていた。あの時の存在感やメッセージに到底及ばない。件の作品は廃墟をそのままトレースしようとしているだけにあり新たな解釈の余地を残しているようにも感じられなかった。

 

そのほかの作品も時計を黒く塗って福島原発の作業員の顔を描いたとか言ってるのは何へのどんなメッセージなんだ??作業員の方に原発の話の責任を求めるのはむちゃくちゃだと思うし、被害者として描いているにしてはあまりにも尊厳を踏みにじっているのでは?

カタストロフに関係ないアートの商業的な話の動画があったり、メドューサの作品があったりなんじゃこれって感じでクラクラしちゃいました。

ブログ書くかは別として、どんな感想としてまとめたらいいんだって悩んでるところに展覧会に際して開かれた講演会の内容が映像と文章であったので覗いたところこんな話が出ていた。

イギリスの政治家エドマンド・バークの著作を参照し、「崇高」とは、我々が実際に苦痛や危険に直面することなく、それを安全な場所から眺めたり、想像したりするときに抱く感情であるとした。今回のテーマに即して言えば、災害の光景を収めた写真や映像に感じる、ある種の美しさ=崇高さは、自らの安全を保障された人間が抱く「不謹慎」な感情に他ならず、絵画や小説に比べて、私たちの身体や情動により直接的に働きかける写真や映像というメディアほど、崇高な感情を呼び起こしやすいために、批判の対象になりやすいと述べた。

 引用元

森美術館「カタストロフと美術のちから展」プレ・ディスカッション・シリーズ 第2回「写真や映像で惨事を表現すること:記録、芸術性、モラル」開催レポート | 森美術館 - MORI ART MUSEUM

崇高については少し読んだことがあるくらいでこれが正しい捉え方なのかは自信がないけどこれにのっとって話をしていくとうまく整理できたような気がします。もとのページの話も概要だけどなかなか勉強になったのでオススメです。この点に関しては行って良かったと思う。

 

結局これまで挙げた作品たちはこの安全な場所から見下しているような「崇高」な感じがぬぐえなかったように思った。

加えて、被災地の人を集めて作品を作っていたけれどこれの意味もなかなか難しいものがあると思った。一緒に作った人にとっては救いになったかもしれないが、鑑賞者からしたらまさに安全なところから眺めている「崇高」なものに他ならないと思った。

 

「とらえ方は鑑賞者に任せる」というのは一つのあり方なのかもしれないが、そのためには強いメッセージを受け取る可能性が存在してこそであり、何より「カタストロフにどのように向き合うのか」というテーマへの解答になっていないように思われた。